歴史から学ぶ⑥ 日本が日露戦争に勝てた理由【Part1】

歴史に学ぶ

こんにちは!AKIRA_Mです。
今日は日露戦争中に活躍した軍司令官を紹介します。

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国民と仲間に非難されながらも戦い抜いた一人の男         乃木 希典(のぎ まれすけ)

 

「日本が勝利を得る可能性は20%と考えるのが妥当だろう。」

これは当時日露戦争の最中に米国大統領セオドアルーズベルトが残した言葉です。

実はこの日露戦争のときの日本とロシアの戦力差は大東亜戦争開戦時の日米の差より遥かに大きく
国力差は面積60倍 国家歳入8倍 陸軍総兵力11倍 海軍総トン数1.7倍…
その上ロシアが所有する軍隊とバルチック艦隊は世界最強と呼ばれており日本の敗戦は濃厚でした。 ですがあなたは不思議に思えませんか?
なぜ日本は大東亜戦争では負けて、それより戦力差があった日露戦争では勝利することができたのでしょうか?
その答えは バルチック艦隊が日本近海につくのが遅かったからではありません
戦争中にロシア国内で革命が起こってロシアが手を引いたからでもありません
アメリカが仲裁に入ってくれたからでもありません
確かにそれはもうに挑戦そうの勝因の一つと言われていますが 実はそれらが起きるもっと前に勝因がありました。

第3軍に下された「特別な命令」

1904年 日露戦争が開戦してからしばらく 各地で戦闘が繰り広げられる中第3軍に
「ある重要な命令」が下されました。 その命令とは…
「ロシアが占拠している旅順港を速やかに攻略せよ」というものです。
この命令は特別な意味をもちました。
もしこの命令を失敗するとなると現在戦っているよ旅順艦隊に加えて 当時世界最強クラスの艦隊と呼ばれる「バルチック艦隊」が欧州から日本近海に行ってきて 戦力が倍増したロシア軍を日本は相手にすることになります。
そうやってロシア軍に日本海の制海権を奪われることになれば 陸軍も海軍も物資の補給ができず、あっという間に糧食・弾薬が尽きてしまいます。
ただでさえ雲泥の戦力差がある中これではまず日本に勝ち目がありません。
つまり日本の命運が掛かった命令だったというわけです。
そこでこの第3軍の士気は過去に日清戦争の際に旅順港を たったの1日で攻略したことがある人物
 「乃木 希典(のぎ まれすけ)」に任されました。
1904年8月 ついに第3軍による 旅順への総攻撃が開始されます。
しかしいざ戦いが始まると日本は苦戦を強いられます。
日本軍が放つ弾は、厚さ1メートルから2メートルの分厚い壁に跳ね返され
ロシアが持つ最新の機関銃は1000人…2000人…3000人…と次々に日本の兵士の身体を無残に貫いていきます。
日本の船上は血の海で染まりました。
それでも闘志を失うことがなかった日本人は弾がある限り反撃を試みますが、ロシアの猛攻で日本の軍艦は十分に近づいて攻め込めないために、遠くから砲弾を打って もそれがどれくらい正確に的に当たっているのかさえもわかりませんでした。
そして合計3回の総攻撃を旅順港に仕掛けましたが…結果はすべて失敗。
日本軍は多数の軍艦・万単位の兵士・大量の弾薬を持って3度にわたる集中砲火をしても 相手に多少のダメージを与えるだけで陥落させるには到底至らなかったのです。
この作戦の失敗で乃木司令官は大量の弾薬と1万5千人を超える兵士を失うことになりました。

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