皆さんこんにちは!
AKIRAです。
皆さんは【高橋是清】(たかはし これきよ)と言う人物をご存知でしょうか? 1951年~1958年に日本銀行券(紙幣)として発行された五十円紙幣に肖像された人物の事です。 戦後最大の『令和恐慌』と騒がれている今ですが 実は昭和時代にも『恐慌』があり【高橋是清】がこの恐慌から国民を救い日本経済を急成長させた人物です。 今回はこの人物の紹介です。
【高橋是清】の生い立ち
高橋是清は嘉永7年(1854)9月19日、江戸芝中門前町で幕府御用絵師・川村庄右衛門と、きんの子供として誕生します。
しかし生後まもなく仙台藩の足軽・高橋覚治の養子となりました。➡(なので高橋是清)
養子となった高橋是清は横浜にあるアメリカ人の医師・ヘボンの開くヘボン塾(現在の明治学院大学)に通い英語を学びます。
その後慶応3年(1867)仙台藩の命令によって勝海舟の息子・小鹿とともに海外へと留学を行いました。 しかし、この留学に関して、高橋是清は横浜にいたアメリカ人のユージン・ヴァン・リードに学費や渡航費を着服させられ➡(騙されてお金を取られてしまいます。)
また留学先の両親には年季奉公を結ばされるなどの被害に遭い➡(奴隷契約書にサインしてしまいます。)
留学生活では牧童や葡萄園などで、奴隷のように扱われ、いくつかの家を転々とするなどの苦労をしましたが、英語の会話と読み書き能力を習得することができました。
明治元年(1868)高橋是清は留学先から日本に帰国します。
明治6年(1873)外交官・森有礼の勧めによって高橋是清は文部省に入省し、十等出仕となりました。
この間、英語教師も務め共立学校(現在の開成中学校・高等学校)の初代校長を務めました。
明治17年(1884)には農商務省に設置された特許局の初代局長に就任します。
明治22年(1889)になると、ペルーで銀鉱事業を行うも失敗に終わり➡(一時ホームレスになる)
明治25年(1892)ペルーから帰国した際 川田小一郎に勧められ日本銀行に入行し日銀副総裁になる。
日露戦争の勝利は【高橋是清】のおかげ
日本銀行に入行し日銀副総裁となった高橋是清は日露戦争が起こった際は秘書・深井英五とともに戦費調達のために同盟国であったイギリスに向かいました。
(外貨建て日本国債の発行で借金をするためです。)
例えば、イギリスの強い軍艦を日露戦争に勝つために日本は手に入れようとしますが
当時は日本はまだ諸外国から信用できる経済力がなかったので、金かポンドでしか取引してくれませんでした。
また、イギリスの投資家たちは、日露戦争において日本の兵力ではロシアに敗戦すると予想し、また日本政府の支払い能力、日本とロシアの中立国であるイギリスが日本に軍資金を提供するのは中立違反であることを懸念しました。
それに対し、高橋是清は最期の1人となってでも戦う所存、関税収入があるため支払い能力はある
南北戦争では中立国が軍費提供を行っていた事例がある。
と反論し、イギリスを納得させ戦費調達を成し遂げます。
これによって日露戦争で日本が一気に優先となり勝利する事ができました。
日露戦争の勝利は【高橋是清】のおかげといっても過言ではありません。
生涯に7回も大蔵大臣を務めた【高橋是清】
日露戦争の後、日銀総裁、貴族院議会、大蔵大臣、総理大臣と歴任するも日本に「危機」が起きるたびに、引退先から呼び戻され、結局、生涯に7回も大蔵大臣を務める事になり、1936年2月26日に暗殺されました。
是清に学べ【高橋是清】の言葉1
緊縮という問題を論ずるに当たっては、先ず国の経済と個人経済との区別を明らかにせねばならぬ。 例えばここに一年五万円の生活をする余力のある人が、倹約して三万円を以て生活し、あと二万円はこれを貯蓄する事とすれば、その人の個人経済は、毎年それだけ貯蓄が増えていって誠に結構なことであるが、これを国の経済の上から見るときはその倹約に依って、これまでその人が消費しておった二万円だけは、どこかに物資の需要が減る訳であって、国家の生産力はそれだけ低下する事となる。ゆえに国の経済より見れば、五万円の生活をする余裕のある人には、それだけの生活をしてもらった方がよいのである。(高橋是清:著「随想録」)
誰かの支出は誰かの所得になると言う事ですね。
是清に学べ【高橋是清】の言葉2
更に一層砕けて言うならば、仮にある人が待合へ行って、芸者を招んだり、贅沢な料理を食べたりして二千円を消費したとする。
これは風紀道徳の上から云えば、そうした使い方をして貰いたくは無いけれども、(現代でいうキャバラクラで豪遊とかですかね)
仮に使ったとして、この使われた金はどういう風に散らばっていくかというと、料理代となった部分は料理人等の給料の一部となり、また料理に使われた魚類、肉類、野菜類、調味品等の代価及びそれらの運送費並びに商人の稼ぎ料として支払われる。
この分は即ちそれだけ、農業者、漁業者その他の生産業者の懐を潤すものである。
面してこれらの代金を受け取りたる農業者や漁業者、商人等はそれを以て各自の衣食住その他の費用に充てる。
それから芸者代として支払われた金は、その一部は芸者の手に渡って、食料、納税、衣服、化粧品、その他の代償として支出せられる。
すなわち今この人が待合へ行くことを止めて、二千円を節約したとすれば、このひと個人にとっては二千円の貯蓄が出来、銀行の預金が増えるであろうが、その金の効果は二千円を出ない。
しかるに、この人が待合で使ったとすれば、その金は転々して、農、工、商、漁業者等の手に移り、それがまた諸般産業の上に、二十倍にも、三十倍にもなって働く。
ゆえに、個人経済から云えば、二千円の節約をする事は、その人にとって、誠に結構であるが、国の経済から云えば、同一の金が二十倍にも三十倍にもなって働くのであるから、むしろその方が望ましい訳である。
これが個人経済と国の経済との異なっているところである。(高橋是清:著「随想録」)
個人経済と国の経済の違いの説明です。
つまりは国民皆が豊かになるには国民が支出をして誰かの所得を生み出す。と言うプロセスを繰り返さないと景気は良くならないと言う事ですね。
【高橋是清】の政策と昭和恐慌
高橋是清は1929年 第1次世界大恐慌の時には政府より国債を発行・公共事業など財政支出をし
国民を貧困化させるのを防ぎました。
このグラフを見ても分かりますが諸外国と比べて日本は、ほどんど影響を受けてない事が分かります。
ここで言いたいことは、世界中に起こる不景気「恐慌」には国(政府)が財政支出をしなければ
国の景気回復は出来ないと言う事です。
こちらのグラフは過去の日本の負債が対GDPで何倍になったかのグラフです。 これを見て分かりますが、第2次世界大戦で2.5倍以上になっている理由は、政府が国債を発行し続けないと戦争が続けられないからです。 また、第2次世界大戦以降、急激にグラフが下降しており「負債が急激に減ってるから日本が良くなった」と勘違いする人が多いのですが この時がまさに日本は昭和恐慌に突入する事になります。
昭和恐慌に突入
では何故、第2次世界大戦後に日本は昭和恐慌に突入したのでしょうか?
「アメリカに戦争で日本が負けたから」ではありません。それも理由の一つかもしれませんが
当時のアメリカのGHQの指令により日本は物凄い緊縮財政を行った為、国の負債が急激に減りましたが
同時に物凄いデフレーションにより国民が貧困化したのです。
令和恐慌
今の日本を救うには【高橋是清】のように政府が国内の経済力・供給力を維持するために政府が国債を発行し財政拡大をしケインズでいう「有効需要」を作ることが必須です。
今回は以上になります。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございます。
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